昔と社会が大きく変わり、人間関係や会社における価値観の違いを
オイラなりに考えています。
本日は2回目。
昔(15〜10年前)と今とを比べて大きく3つ列記してみました。
1、今ほど生活の物があふれていない (物の不足)
2、共通の事を探していた (人との同調)
3、規制による安心 (誰かが守ってくれた)
本日は「1」についてです。
昨日書きましたが、生活習慣が大きく変わった物の一つには
携帯電話だと思います。
今までは、お父さんが仕事に行ってしまえば、帰宅まで連絡が
付かないのは当たり前でした。
「おとうさん、帰りに大根と人参を買ってきてよ!」と
会社へ電話してくることはありませんでしたが、今は日常的?に
なっているのではないのでしょうか。
(いや、過去に現場事務所へこんな電話があったっけ)
欲しいものが欲しいときに手に入る。
最近はインターネットによる物品の購入により、近場の店にないものも
1,2日後には手に入るようになりました。
以前は日曜日に1,2時間車を走らせて購入しに行ったものです。
(田舎に住んでいますので2時間は走らないと都会にいけません)
このほか以前は高価だった物が手に入りやすくなり、必要がないものまで
購入してしまう現象。
100円均一のお店に行ったときにみなさんこんなことがありませんか?
「おっ、これ面白そう。とりあえず買っとこう!」と今の生活にほとんど
必要が無いものまで買ってしまう。
そして家の中で転がって、邪魔になったからごみに出す。
こんな中で我慢することが非常に減ったのではないでしょうか。
つまり自分をコントロールする力が知らないうちに衰えてきています。
自分が欲しいもの、やりたいことがわからなくなって目標に
たどり着く力が衰えていると言ったほうが良いかもしれません。
目標が無いからいろんな事をしてしまう 多様化人間
物があふれて人より違うものを求めてしまう 異色化人間
今の人は 「多様化人間と異色化人間」になっていると思われます。
これが組織の中でどうなるか? 続きは後日に。










それに伴い日本人的文化も失われつつあります。
日本語の持つ言葉の奥に秘められた感情を理解できない人が多くなったのではないでしょうか。
若者に対する注意や進言は間接な言い回しでは真意が伝わらな時代になっちゃいました。
人と会ってきちんとした会話ができない若者も増えています。
ある意味生活スタイルの欧米化により致し方ないのかも知れません。
日本語の本来持つ意味が最近変化していると言われますが、”無礼講”は本当に”無礼な子”になりつつあります。
携帯やメールで何でも用件を済ませてしまう時代の歪みかも知れません。(と言ってる私もそうかも・・・)
そんな事を言っている自分がもう古い時代の人間に分類されるのだと痛感しています。